ポール P. ハリス(PauI Percy Harris)


mapimage ロータリーの創始者、職業は弁護士。1868年4月19日、米国ウィスコンシン州 ラシーンに生まれる。
1905年2月23日、ロータリーの最初の会合をシカゴのユニティ・ビルで開く。
参加者は、ポール・ハリス(38歳 PauI Percy Harris)のほか、3人の若い実業家 で、石炭商シルベスター・シール(Silveste Schiele)、鉱山技師ガスターバス・ロー ア(Gustavus Loehr)、および洋服仕立業ハイラム・ショーレー(Hiram Shorey)達であ った。

1907年にシカゴロータリークラブの会長となり、1910年には全米ロータリー 連合会を設立し会長となる。
ポール・ハリスは1947年1月27日79歳で逝去。



ポール・ハリスは1868年(明治元年)4月19日米国ウィスコンシン州ミシガン湖の南西岸の町ラシーン(Racine)で生まれました。
父親はジョージ・ハリスと言いましてニューイングランド北部のバーモント州ウォーリングフォードに住んでいるハワード・ハリスの息子でラシーンでドラッグ・ストアを経営して居りました。母親はコーネリァ・プライアンドと言いましてラシーンの副市長へンリー・ブライアンの娘でした。ブライアン家の方々は皆誇り高い人達でありました。

父は祖父から店と住宅を建ててもらってドラッグ・ストアを経営しておりましたが次第に赤字経営となり遂に1871年ポール・ハリスが3才のとき母と小さい妹の2人をラシーンに残して父と兄セシルとポールと3人ウオーリング・フォードの祖父母のところに引っ越しました。
そして父は近くで再び商売を営むことにし、祖父がその経営の面倒をみることになり、ポールと兄セシルはこのバーモンドの山あり谷あり農場ありという静かな自然の中で規律正しく、そして優しい祖父母の許で楽しく生活することになりました。

ポール・ハリスは10数年この町に住み、学校も高校の課程を終え大学へと進学していましたが昔ながらの教育課程には殆んど興味を持ちませんでした。プリンストン大学在学中に祖父が亡くなり、その後祖母を一層深く慕うようになりました。そしてポールは法律を学ぶためにアイオワ大学に入学することになりましたがアイオワへ行く途中シカゴに立寄り、1週間ばかり過しましたがポールはこの無秩序で騒々しい都市シカゴに魅了されて、将来ここに来ようと心に誓いました。

ポールはアイオワ大学在学中に祖母の悲しい死を知り、且つ少年時代の色々な情景や出来事を思い出しながら淋しい沈んだ気持ちで勉強をつづけていたので、すっかりホームシックにかかってしまいました。あの谷間のきちんとした家や祖父母の愛情のこもった心づかいがなつかしくってたまらず、バーモンドの山々を夢にまで見た程です。と述べています。またポールはアイオワ大学在学中の最後の時期にたった一つ興味をもって夢中になったことがありました。と言って次のように述べて居ります。

「それは人間のさまざまな生き方を知りたいということでした。うまく目的を遂げる事が出来るだろうか。心の底では気違いじみた企てだという事はわかっていました。この分れめという大事なときに、あるきっかけがあって私は自分の信念を益々固めることになりました。というのは卒業式のある講演の中で、10年前にこの大学を卒業したある弁護士が、先づどこかの小さな町に行って、そこで5年位は馬鹿になってみる。そしてその上で自分の好きな都会に出て、そこでほんとうの仕事を始めるという考え方は意外に賢明な考え方ではないだろうかとお話されたのです。この助言は私の心に残っていたためらいをすっかり溶かしてくれました。

よし一つ小さな町と言わずに、世界中行けるところならどこへでも出かけて5年間馬鹿になってやろう。素晴らしい冒険だ!
したい放題勝手なことをやった上で、たとえばシカゴのような大都会に出て、看板を掲げそれから落ち付いてちゃんとやっていくのだ。そう考えて私はあてどもない旅に出て、その間一度もあともどりしませんでした。
私の大きな望みを達成する為には手であろうと頭であろうとすべてをあらゆる形で使っていかなければなりませんでした。そして寝苦しいとき、空腹のときなど思わず故郷の谷間と住みよかった祖父母の家に思いをはせたことは何千回もありました。いちばん度々思い出したのは祖父母のやさしい心づかいでした。放浪に充てる5年間は未だ3ヶ月残っていたのですが、私はそろそろ弁護士事務所を開くつもりでシカゴにやって来ました。

少年時代は終ったのです。旅行と労働は大人になる良い経験になりました。私の生活がほんとうに最終的に落付いたのは1896年(明治29年)の早春のときでした。事業や専 門職務に従事する人達の世界的親睦を実現しようというビジョンはまだできていませんでした。それには異った性質のさまざまな経験を積まなければなりません」と述べています。

. ご承知のようにポール・ハリスはこれから9年後の1905年(明治38年)2月23日に3人の友達とシカゴのガスターバス・E・ローアの事務所に集って色々話し合った結果今日のロータリーという組織が出来ましたことは皆様ご存じの通りであります。

1910年にはロータリークラブが100も組織されまして8月にシカゴのコングレスホテルで第一回の大会が開催されました。この大会でポールハリスは連合会の会長に推され3回目の1912年の大会では名誉会長に推されました。
第1回のとき議長をつとめましたチェスリー・R・ペリーという方はこの大会で事務総長に選ばれ1942年引退するまで30数年間継続されました。

ポール・ハリスとチェスリー・.ペリーがロータリーのことについて30数年間も一緒に に働いたことについてはポール・ハリスは「チェス・ペリーと私が一緒にうまく仕事をしてゆくことが出来た事はロータリーにとって大きな天の恵みだったと思います。
しかしチェスと私とは通常の意味での仲良しであったとは言えないと思います。チェスには変ったところがありましたし、私にもありました。彼にとって当り前の事と私にとって当り前の事が食い違う場合もあったのです。
しかし単に仲が良いというだけではなく、もっと大切なものが長い間に着実に育っていました。それはお互いに尊敬しあうところから生まれる「心からの愛情です」と述べています。

最後にポール・ハリスが書いた本の中に青春時代の目出たい記事がありましたのでご紹介いたします。
ある冬の日のこと私はシカゴの郊外のロングウッド通りの尾根と呼ばれる丘の道を通りましたら大勢の子供たちが雪におおわれていた丘の上から面白そうに滑って居りましたのを見て自分が子供の頃ニューイングランドで遊んだことが懐かしく思い出され、もし自分も家を持つようになったら、この丘の上に建てようかなと思いました。
ところが意外に早くその時期がやって来ました。それはシカゴプレアリークラブで田舎にハイキングに出かけたときのこと、かわいらしいスコットランド生れの娘さんと知り合いになりました。
彼女は私の上衣のほころびているのを見つけて縫ってあげようかと言ってくれました。これが彼女にとっては運のつきだった訳で、私はその後間もなく、彼女ジーン・トムソンをくどいて妻にしてしまいました。
かわいいジーンと結婚したのは1910年(明治43年)でしたがその2年後にこの丘の上に家を特つことが出来ました。
この家を私達はジーンが少女時代を過ごしたエジンバラの通りの名をとってカムリーバンクと名づけました。
その後30年間私達が住んでいた間毎年冬になるとどこの家の子供達も芝生の斜面を自由に滑って喜んでおりました」と述べてあります。只残念なことにポール・ハリス夫妻は子宝に恵まれませんでした。
そして1947年1月27日にロータリー創始者ポール・パーシー・ハリスはこのカムリーバンクの自宅で安らかに78歳の生涯を閉じたのであります。
1998年のインディアナポリス国際大会でお知り合いになりました、大曲RCの 伊藤ネ喜正PGより頂きました「大曲RC(1998/01/27 1939週報)」を転載させて頂きました(*。-)
素晴らしい写真も一杯ありますので、また頑張って掲載していきま〜す(^-^)/~


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